大洪水に見舞われた2011年はゼロ成長に落ち込み、日系企業の被害も甚大だった。タイ政府は治水対策に乗り出し、工業団地も自ら防水壁を築いて再発を防ぐ。賃金の上昇は進出企業には逆風となるが、購買力の向上を待つ度量が問われる。

 バンコク市内のオフィス街。全身を黒い布で覆ったイスラム教徒の女性とターバンを巻いた男性がロビーを行き交う。高い天井と豪華な内装を見れば、初めて訪れた人は5つ星ホテルと見まがうだろう。だが、ここは病院だ。2011年には世界190カ国から46万人もの患者がやってきたバムルンラード・インターナショナル病院である。

 バンコクには同病院以外にも、充実した設備を持つ外国人向け病院が複数ある。タイ保健省によると、2011年は大洪水があったにもかかわらず224万人もの外国人患者が同国を訪れた。その経済波及効果は978億バーツ(約2445億円、1バーツ=2.5円で計算)と試算されている。

 外国から患者を受け入れる医療ツーリズムで、世界最多の実績を誇るのがタイだ。2012年は前年から13%増えて253万人の患者が外国から押し寄せると見込まれている。最大の魅力は、世界水準の医療サービスを格安の値段で受けられる点にある。

 バムルンラード病院の場合、例えば脊椎固定手術は米国での平均費用の45%で済む。これは患者と家族の計2人分について、往復渡航費や宿泊代なども含めた総コストだ。

【1】海抜5.5mの高い壁で覆われたナワナコン工業団地 【2】ショッピングモールで定番店となっている吉野家 【3】石川県の「8番ラーメン」も人気ラーメン店として97店を展開 【4】バンコク市内には外資系スーパーの出店が相次ぐ 【5】バムルンラード・インターナショナル病院には充実した医療設備が並ぶ

北米テロが追い風

 「9・11以降、中東からの患者が大幅に増えた」と語るのは、同病院の医療コーディネーション部でシニアコーディネーターを務めるボーリハン・スワンディー医師。アラブ諸国の富裕層はそれまで欧米の病院で治療を受けてきたが、北米テロで状況は一変した。そして最近増えているのが、ミャンマーやバングラデシュなど周辺国からの患者だ。こうした新興国でも富裕層が育っており、高いレベルの医療サービスを妥当な費用で受けられるタイの病院が評価されている。

 タイが医療ツーリズムに本格的に取り組み始めたのはタクシン・シナワット政権時代(2001~06年)から。1997年のアジア通貨危機によって、タイ経済は深刻なダメージを負った。先進国からの資本や技術を積極的に導入して東南アジア諸国連合(ASEAN)の中でも屈指の工業国に育っていたタイだが、輸出が滞った。国内経済を立て直すためには内需を振興させる必要があり、目をつけたのが外国の富裕層を呼び込む医療ツーリズムだった。

 タイは“ほほ笑みの国”と呼ばれるほどホスピタリティーに溢れる国民性が特徴。加えて、先進国に比べて人件費は圧倒的に安い。日本の病院では総コストに占める人件費の割合が5割近くとなるが、タイならば外国語が堪能な医療スタッフを揃えても全体の2割に抑えられる。安価な労働力を製造業だけではなくサービス業にも生かした。

防水壁に囲まれる工業団地

主な業種の進出適性度を◎ ○ △ × の4段階で評価(注:各種情報を基に本誌が独自評価)

 では、製造業はどうか。タイは日本だけでなく世界中のメーカーが工場を設置し、分厚い産業基盤を構築してきた。ところが降雨量が例年より5割近くも上回った昨年、大洪水が発生。浸水面積は1万8000km2に達し、死者は815人に上った。世界銀行の試算によると、洪水による被害総額は名目GDP(国内総生産)の13.5%に相当し、実際、2011年の経済成長は0.1%という極めて低い水準に落ち込んだ。

 洪水はタイに進出している日系企業にも甚大な影響を与えた。浸水被害を受けた808社のうち6割近い469社が日系企業だった。タイでの生産が滞ったため、サプライチェーンが途切れ、自動車やエレクトロニクス産業で減産を余儀なくされたメーカーも相次いだ。

 こうした多大な被害を被りながらも、日系企業のタイへの投資熱は落ちていないようだ。国際協力銀行が今年3月、現地に進出している日系企業に対して洪水後の事業展開の有望度を尋ねたところ、83.4%の企業が「洪水前と変わらない」と回答している。既に産業集積度が高く、メコン経済圏の中心に位置する地政学的なメリットを考慮すれば、タイの優位性は変わらないと判断する企業は多いと言える。

 自国経済が進出企業に支えられていることを自認するタイ政府は、矢継ぎ早に対策を講じている。既存ダムの運用を改善したほか、洪水関連の情報をリアルタイムに提供するシステムの運用も始めた。また、バンコク市の周辺に全長150kmの放水路を設置する計画で、工業団地や道路など重要施設への浸水を防ぐ考えだ。一連の治水対策に国家歳入の2割近い3500億バーツ(約8750億円)を投入することからも、タイ政府の真剣度が伝わってくる。

 工業団地も独自の対策を進めている。中部のパトゥムターニー県にあるナワナコン工業団地は周囲を分厚いコンクリートの壁で覆い尽くした。その高さは海抜5.5mで、昨年の浸水時より80cmも高く設定した。同工業団地のニピット・アルンウォン・ナ・アユタヤー社長は「より高い安全性を進出企業に保証するため」と語る。

メコン経済圏の中心
タイの主な都市と幹線道路

最低賃金引き上げ「消費市場」へ

 進出企業にとっては今年4月に実施された最低賃金の大幅な引き上げも打撃となった。バンコクを含め7都県で1日の最低賃金が300バーツ(約750円)となり、従来水準より一気に4割も高くなった。外国企業の投資に水を差しかねない政策だが、タイ国家経済社会開発委員会で政策顧問を務める松島大輔氏(経済産業省から出向)は「労働集約型産業はもう要らないというタイ政府の意思の表れだ」と解説する。

 タイの成功を手本に、ベトナムやカンボジアなどでも外国資本の誘致が積極的に進められている。こうした周辺国と比べてタイの賃金水準は相対的に高く、労働コストの面でタイの競争力は高いとは言えなくなってきた。

 むしろタイ政府は自国民の所得水準を引き上げることで、内需を活性化させる方向に舵を切ったと判断した方がよい。痛みを伴ったとしても経済の構造改革を進めなければ、開発途上国を脱した後に経済が長期間停滞する「中進国のワナ」に陥ってしまう。タイの1人当たりGDPはいまだ5000ドル台で、シンガポールはおろかマレーシアにも大きく水をあけられている。

 1人当たりの所得が増えれば、消費市場としての魅力も格段に高まる。冷蔵庫やテレビは一般家庭にほぼ普及しているが、エアコンや乗用車の普及率はまだ1割台にとどまっている。裏を返せば、市場の伸びしろは大きい。乗用車の販売は今年4月に始まった初回購入者向け減税策によって急増しており、今年は前年比6割増の130万台に達すると見込まれている。

 親日的なタイでは、日本ブランドの人気も高い。日本企業が提供する商品やサービスは、昼食代相場が50バーツ(約125円)の大衆層にはまだ割高ではある。ただ、経済が今後順調に成長すれば、潜在顧客は徐々に拡大していく。最近では外食産業の進出が特に増えており、和食の「大戸屋」や石川県を基盤とする「8番ラーメン」などがバンコクを中心にチェーン展開を積極化している。

(北京支局 坂田 亮太郎)

日経ビジネス2012年10月29日号 116~119ページより目次
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