iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授のノーベル賞受賞が決まった。再生医療や創薬への応用を目指し、民間企業でも事業化の動きが活発だ。新技術を医療の現場に生かすため、継続的な企業努力が求められる。

ノーベル生理学・医学賞を受賞し、会見した京都大学の山中伸弥教授は医学応用への思いを語った(写真:共同通信)

 「受賞は光栄。だが、これからも研究を続けて1日も早く社会貢献、医学応用を実現しないといけない気持ちでいっぱいだ」

 10月8日夜、新型万能細胞「iPS細胞」の研究成果でノーベル生理学・医学賞の受賞を決めた京都大学の山中伸弥教授は、記者会見でこう語った。独特のユーモアがにじむ淡々とした口調だけでなく、早期の医療応用の重要性を真っ先に訴える姿勢も、これまでの山中教授と変わりがなかった。

 今回、直接の受賞理由になったのは、「細胞の初期化」と呼ばれるメカニズムに関わる基礎研究成果だ(本ページ下の囲み記事参照)。しかし、臨床医から基礎研究者に転じた山中教授が常に自身に課してきたのは、こうした研究成果を新しい治療法に結びつけ、いち早く患者の元に届けること。

 山中教授がiPS細胞の開発に着手したのも、事故や病気で失われた臓器を回復する「再生医療」への応用を目指すうえで、従来の万能細胞が抱えていた様々な課題を克服するためだ。

 2007年にヒトのiPS細胞の作製に成功した後は、自ら先頭に立って国の研究計画作りや臨床応用の基盤整備、社会への情報発信に力を尽くしてきた。iPS細胞の分野で研究拠点の育成や有力特許の取得が着実に進んできたのは、実用化を重視する山中教授の研究姿勢によるところが大きい。

網膜の再生医療が実用化間近

 こうした環境整備に呼応する形で、民間企業の間でもiPS細胞の事業化を目指す動きが広がっている。

 iPS細胞の応用が最も期待される再生医療分野で先行しそうなのが、理化学研究所が2011年に設立した新会社、日本網膜研究所だ。同社はiPS細胞から作った網膜の細胞を、失明の恐れもある目の難病「加齢黄斑変性」の患者に移植、根治することを目指している。早ければ2013年度にも臨床研究に移行したい考えだ。

 iPS細胞から作った組織や臓器を体内に移植する技術でも企業の参入が増えている。富士フイルムは人工たんぱく質を足場に使い、移植した細胞が体内で血の通った組織に育ちやすくする技術を開発。バイオベンチャーのサイフューズは、足場材料を使わずに体への定着率を高める細胞再生技術を考案した。同社の口石幸治社長は、「今回の受賞で再生医療に注目が集まり、事業の追い風になりそうだ」と期待する。

 再生医療より一足早く本格的な産業利用が始まったのが、新薬開発や難病の仕組み解明といった分野だ。

 細胞ベンチャーのリプロセルは、iPS細胞を基に作製した高品質の心筋細胞や肝細胞を、製薬会社に販売する事業を始めている。iPS細胞を使えば、従来入手が困難だったヒトの細胞で新薬の効き目や毒性を調べられるため、創薬にかかるコストや時間を大幅に減らせると期待がかかる。

 製薬会社も研究に本腰を入れている。武田薬品工業は慶応義塾大学と組み、iPS細胞から神経細胞を作製することに成功。アルツハイマー病のメカニズム解明や治療薬開発に役立てる狙いだ。「山中教授の発見が新薬開発の基盤を確立し、近い将来、画期的な創薬に結びつく」(同社)。大日本住友製薬も京大と共同で、希少疾患の治療薬開発を目指している。

 企業や研究の現場でiPS細胞の利用が進むにつれ、iPS細胞や治療用の細胞を効率よく作製・提供する技術の需要も高まりつつある。

 ニコンは、良質なiPS細胞を自動的に選別する細胞培養観察装置を開発中。既存の培養装置に機能を追加する形で実用化する考えだ。山中教授のノーベル賞受賞を受け、「さらに使いやすい装置を開発していきたい」(同社)と意気込む。

 島津製作所は大阪大学と組み、iPS細胞から作った目の細胞を培養する装置を開発、病院への導入を促進するため小型化に取り組んでいる。細胞の自動培養装置を手がける川崎重工業は、「iPS細胞の実用化には大量の細胞を安定して培養する技術が不可欠。日本発の再生医療技術の実用化に貢献したい」とする。

 iPS細胞が、低迷する国内産業の活性化につながるとの期待感は強い。調査会社富士経済によると、人工組織や人工細胞とその関連設備・機器などの国内市場は、2013年に約552億円と、2011年比で7%増える見通し。バイオ関連専門のベンチャーキャピタル、バイオフロンティアパートナーズの大滝義博社長は、「今回の受賞でiPS細胞の知名度が高まり、再生医療や創薬のベンチャーが増えるのは間違いない」と話す。

 山中教授の論文発表からわずか6年で、実用化の胎動が感じられるところまで来たiPS細胞。だが、山中教授は、「まだ本当の意味で役立ったと言えるところまで来ていない」と強調する。iPS細胞という日本発の技術を医療現場で役立てるには、臨床応用に備えた社会的な制度作りに加え、民間企業の継続的な取り組みが不可欠になる。

科学の常識覆したiPS細胞

 受精卵はあらゆる細胞に成熟できる多能性を持つ。私たちの体は、その受精卵が分裂を重ねながら、皮膚や神経など様々な細胞に成熟した結果だ。従来は、一度成熟した細胞は多能性を失うと考えられていた。ノーベル生理学・医学賞を受賞した英ケンブリッジ大学のジョン・ガードン教授と山中教授の研究成果は、こうした科学の常識を覆した。成熟した細胞から、受精卵のような多能性を持つ細胞を人工的に作り出せることを発見したのだ。

 ガードン教授は1962年、オタマジャクシの小腸の細胞の核を、あらかじめ核を抜いておいたカエルの未受精卵に移植。その卵からオタマジャクシが発生することを示した。一方の山中教授は2006年、ネズミの皮膚の細胞に4つの遺伝子を入れると、細胞が再び多能性を獲得することを見いだした。

 2007年には、成熟したヒトの細胞でも同様の成果が得られた。これらの細胞はiPS(人工多能性幹)細胞と呼ばれている。iPS細胞と同様に多能性を持つ細胞としてはES(胚性幹)細胞がある。ただ、ES細胞は他人の受精卵から作られるため、拒絶反応が起きるほか、受精卵を壊して作る必要があり、倫理的な議論を巻き起こしてきた。

 対して、iPS細胞は、患者自身の細胞から作製できるので拒絶反応が起きにくいうえ、皮膚など様々な細胞から作製可能。ES細胞の難点を克服できることから大きな注目を集めている。

 課題はiPS細胞の規格作り。再生医療に利用するには、ガン化などを引き起こさない安全なiPS細胞の見分け方を確立しなければならない。加えて、iPS細胞の細胞バンク設立なども必要になる。

(久保田 文=日経メディカル)

(田中 深一郎、宇賀神 宰司、広岡 延隆)

日経ビジネス2012年10月15日号 8~9ページより目次

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