日本企業のアジア戦略が根本からの見直しを迫られている。尖閣諸島を巡る問題により中国では日本製品の不買運動が広がった。もとより人件費の高騰で、中国は「世界の工場」という役割を終えつつある。インドもインフラの整備が十分でなく、その潜在力を開花させるには時間がかかる。
 中印という巨大市場の狭間に日本の活路が広がっている。東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国だ。それぞれの国は小さいが、10カ国を束ねれば人口は6億人を突破する。2015年には経済共同体を発足させる予定で、域内関税が原則ゼロとなる。他市場との自由貿易協定にも積極的なため、ASEAN市場はアジア経済のハブとなり得る。
 このASEAN諸国について、製造・物流拠点と消費市場の2つの側面から10カ国それぞれの特徴を6週連続で紹介していく。

(写真:日本アセアンセンター)

 ベトナムの首都ハノイ近郊の工業団地では女性工員が真剣な表情でミシンを操っていた。ここはアパレルメーカー向けにOEM(相手先ブランドによる生産)でジーンズを提供するエムアンドアールの現地工場。次々と積み上がる完成品を見て、西村秀樹総経理は目を細める。

 同社は2002年から中国広東省、広州で縫製工場を運営してきた。だが人件費が高騰。労働ストライキも頻発するようになったことから、2008年にベトナムでの生産を開始した。

 人件費の安さだけを求めるなら他の地域へ進出する選択肢もあっただろう。しかし、主たる納入先である日本企業までの輸送距離をできるだけ短くしたかった。さらに中国とインドという巨大市場へのアクセスの良さも考慮して、ベトナムへの進出を決めた。

 工場立ち上げのため広州から移ってきた西村総経理は「最初は従業員とコミュニケーションを取るのにも苦労した。しかし、彼女たちの要望を聞き入れて託児所を整備するなど、就業環境の改善に努力してきた。みんな真面目で、喜んで残業してくれる」と語る。

 中国の工場は現在も稼働しているが小ロット生産に特化させた。ベトナム工場が主力生産拠点へと昇格した。

 ベトナムに限らず、ASEAN諸国への関心が高まっている。外国からの直接投資額は2001年から2010年までの10年間に国際収支ベースで4359億ドル(約35兆円)に達した。これは同期間における中国への投資額の約6割に相当する額だ。

安い、でかい、若い

 ASEAN諸国は若者の人口が相対的に多く、労働者の賃金水準は安い。日本貿易振興機構(JETRO)が2012年4月にまとめた調査によると、シンガポールなど一部を除けばASEANの主要都市におけるワーカー(一般工)の月額基本給は100~200ドル(約8000~1万6000円)台に集中している。200ドル台後半から500ドル(約4万円)に達している中国の主要都市に比べて半額以下にとどまる。

 こうした傾向はエンジニアや管理職でも同じだ。超円高や労働者不足に悩む日本の製造業にとって、ASEANが新たな生産拠点となる可能性を示していると言えるだろう。

 労働者の生活環境を改善するため、各国政府は最低賃金を毎年のように引き上げている。だが、こうした流れは発展途上国全体に広がっており、ASEANだけの特殊事情ではない。日本と比べた場合の賃金格差は依然として数倍以上もある。

 ASEANが外国企業を引きつける要因は製造拠点としての可能性だけではない。所得水準が向上し、有望な消費市場に育ちつつある。ASEANにはインドネシアのように2億人を超える人口大国もあるが、ブルネイのように三重県程度の広さに36万人しか住んでいない小国もある。とはいえ、10カ国を束ねれば、域内人口は2011年末で6億人を突破した。中国やインドに比べると規模で劣るものの、日本の総人口のおよそ5倍に及ぶ巨大市場であることは紛れもない事実だ。

 成長性も申し分ない。国連の「長期人口予測」によると、ASEANの域内人口は2030年には7億3517万人に達する。2010年からの20年間でおよそ1.4億人、割合にして24.1%も増えると見込まれている。

 しかも年齢層別に見た時のバランスが良い。若者層(15~29歳)こそ横ばいだが、働き盛り(30~49歳)は22.2%増、シニア層(50~64歳)も71.9%増える。65歳以上の高齢者が2倍以上に増えるものの、子供(0~14歳)も8.6%増える。一人っ子政策によって子供から働き盛りまで一斉に減り始めた中国と異なり、ASEANは、現役世代だけでなく将来を担う世代まで満遍なく増える。

韓国、中国もASEANへ接近

出所:国際通貨基金(IMF)の「Direction of Trade Statistics(DOTS)」

 こうした潜在力を認識しているからこそ日本はASEAN諸国に対して積極的に関わってきた。日本銀行によると、日本からASEANに対する直接投資額は過去から2011年末までの累計で9兆円近くに達する。中国への累計投資額が7兆円に満たないのに比べると大きな差だ。2011年のASEANへの投資額は、東日本大震災という未曾有の危機に見舞われながらも、1兆5491億円に達した。これは日本の対外直接投資総額の17%に当たる。ASEANに対する日本の期待を示すものだ。

 ASEANに対して熱い眼差しを送っているのは日本だけではない。韓国は、ベトナムへの投資を強化している。サムスン電子やLG電子が工場を次々と設置して、現地での存在感を急速に高めている。

 21世紀のアジア覇権国を目指す中国も濃淡をつけてASEAN諸国へ触手を伸ばしている。中越戦争で争ったベトナムへの投資は鈍い。けれども、メコン川を共有するラオスや国境線を長く接しているミャンマーへの投資を最近増やしている。

 ASEANを重視する中国の姿勢が垣間見られる事態が最近もあった。9月16日、次期国家主席に内定している習近平氏が南寧(ナンニン・広西チワン族自治区)で開かれた「中国ASEAN博覧会」に出席した。習氏と言えば、9月上旬から2週間、動静が途絶えていた。ヒラリー・クリントン米国務長官との会談さえ直前にキャンセルした。その習氏が、中国全土で反日デモが荒れ狂う中、首都北京を離れる決断を下した。ミャンマーのテイン・セイン大統領やラオスのトンシン・タンマヴォン首相が南寧を訪問していたからだ。

 中国の経済メディアはASEANと中国の外交について、詳細な分析記事を毎度掲載している。中国の産業界にとって、すぐ目の前に広がるASEANは海外戦略を考えるうえで極めて重要な市場だからだ。

ASEANは弱者連合ではない

 ASEAN諸国は、中国とインドという巨大国家に挟まれる。その地政学的な環境の中で、自分たちの経済的な存在感を高めるために集まった。1967年の「ASEAN設立宣言(バンコク宣言)」に賛同したのはインドネシアやタイなど5カ国。その後、ミャンマーやカンボジアなどが仲間入りした。

 世界の主要国に比べればASEAN各国は小さく、いまだに貧しい。必然的に軍事力も乏しいからこそ、お互いに力を合わせる努力を積み重ねてきた。2015年には「ASEAN経済共同体」を発足させる予定で、実現すれば域内の関税が原則ゼロになる。

 ASEANは域外との貿易を促進することにも積極的だ。既に日本、中国、韓国、インド、オーストラリアとFTA(自由貿易協定)を締結・発効させている。ブルネイとシンガポールはTPP(環太平洋経済連携協定)にも最初から加盟している。

 今やASEANは弱者連合ではなく、アジア経済のハブになり得る存在である。韓国や中国との国境問題が泥沼化する中、日本企業がアジア戦略を考えるうえでASEANの重要度が増す。日本企業はどこで製品を作り、どこで売るのか。それを考える一助となるため、ASEAN10カ国の「今」を次ページから紹介する。

(北京支局 坂田 亮太郎)
日経ビジネス2012年10月1日号 108~111ページより目次