今年1月26日。日本海に面した街、富山県黒部市は深い雪に覆われていた。この街の郊外にはファスナーの世界最大手、YKKグループの広大な工場群が広がっている。その一角で、身を切るような寒さを吹き飛ばすほどの熱い研修が行われていた。

 「(ファスナーを染める)染料と助剤の在庫比率になぜこんなにも差が出ているんだ」

 若手生産技術者が提出した、あるファスナー製造現場での在庫指標をスライドに映し出しながら、ベテラン技術者の藤川敏則参事が厳しく指摘する。

 「うちの拠点では、ほかの工場から染料の融通を求められることが多いんです。だから(染料の)在庫が多いのは仕方ないんだと思います」

 「仕方ないで済ませていいのか。それで在庫ばかり増えて会社の重荷になるとは考えられないのか」

 藤川参事の指摘に若手技術者は「あまり考えたことはありませんでした」としか答えられない。

 「まだ教えてほしいことはある。染料と助剤の平均的な使用比率はYKKグループ全体ではどれくらいだ」

 「うちの工場の比率は知っていますが、全体は分かりません」と若手技術者は答える。

 「君たちが海外に赴任したら、現地社員が作ったデータを承認する立場になるかもしれない。そこで『分からない』とか『仕方ない』なんて言っていたらアウトだ。勝手に納得しちゃいけない」。藤川参事はこう厳しく指摘した。

 藤川参事はこれまで米国や英国、中国など数々の国で工場長を歴任してきた。豊富な経験と知識とに裏打ちされた指摘を、海外赴任を控えた入社5~7年目の若手生産技術者8人が熱心に聞き入っている。

 「 在庫管理の巧拙が強い企業とそうでない企業を分かつんだぞ」。藤川参事は続けざまにハッパをかけた。

「技術研修室」で藤川参事(中央)は在庫管理の重要性を若手に熱く語る
(写真: 江田 健一)

若手にも経営全般を担わせる

 昨年5月、YKKは海外赴任を控えた若手生産技術者に生産技術から経営全般に至るまでを指導する「技術研修室」を立ち上げた。育成項目は海外で仕事をする際の心がけから、マネジメント、品質・納期管理、環境、人材育成など多岐にわたる。この日開かれていたのは、生産管理手法を学ぶ「生産マネジメント研修」だった。

 YKKは1959年から海外展開を進め、今では世界71カ国・地域に拠点を持つ。各国の地域事情に合った事業活動を図るため、日本から必要な支援はするものの、送り込んだ若手人材に独自に判断をさせて事業展開してきたのが特徴だ。それが人材の育成と経営のスピード向上につながってきた。

 若手人材は徒手空拳で何もないところからYKKの生産・販売拠点を確立する。日本人が数人しかおらず、大多数が現地人従業員という拠点は数多くある。こういった拠点では、生産現場の管理だけでなく、経営全般をこなさなければならない。

 彼らは現地で必要なことは現地で学ぶ。能力が不足していれば、失敗を繰り返しながら自らを鍛え上げてきた。「失敗しても失敗しても、成功しろ」という創業者である吉田忠雄氏の言葉が、YKKの社風を表している。

 もう1つ、創業者が盛んに唱えていた言葉に「野戦の一刀流」がある。実戦を伴わない「道場の達人」よりも、野戦を経験した者の方が複雑な現実に臨機応変に対応できるという考え方だ。徹底的な現場主義による人材育成と言える。

 技術研修室はそういった考え方とは対極にある。野戦の一刀流が極めて実践的なOJT(職場内訓練)だとすれば、技術研修室は社内道場での教育と位置づけられる。それではなぜYKKは従来のやり方を変えて道場の活用に踏み切ったのか。

 2000年前後から、YKKの主要顧客であるアパレルメーカーが次々とコストの安いアジアに生産拠点を分散していった。それに対応して世界展開を加速してきたが、結果的に世界的な好不況の波に強く影響されるようになってしまった。その変動にうまく対処できなければ、在庫増加などのリスクが強まる。しかもアパレルメーカーは事業展開のスピードを速めており、それについていかないと世界の競合他社に市場を奪われてしまう。

 そうした理由から、世界の各拠点では若手とはいえども即戦力となる人材へのニーズが高まってきた。もはや、かつてのように現場で失敗を重ねながら若手が成長していくのを待っている余裕はなくなったのだ。

「型」を身につけた方が早く伸びる

 「海外に送り込む前に、実戦で役立つ基本的な『型』を身につけさせる。基礎がある人の方が実戦でも早く通用する」と初治寿恵広常務は言う。そこで設立したのが技術研修室だった。

 国内の現場では生産技術担当の1人にすぎない若手でも、一人ひとりの権限が大きい海外拠点では、すぐに生産管理を任されたり、いきなり部下がついたりすることも珍しくない。

 だからこそ、若手技術者が道場で新たな“武器”を身につける意義は大きい。「海外でどうやって生産管理していけばいいのか、今回の研修で分かってきた気がする」。中国・大連の生産拠点で1年の海外研修を終え、今年1月に技術研修室で講義を受けた金属・射出ファスナー製造部の向井英之氏はこう話す。現在は香港の生産拠点で管理業務や改善業務に従事している。

 もちろん、野戦の一刀流を否定したわけではない。藤川参事は「我々が教えられるのは、物事の見方とか問題の見極め方など基礎的な部分でしかない。それを現場でどう応用するかは本人次第だ」と指摘する。こうしてYKKは野戦の一刀流の伝統に道場の一刀流を組み合わせてグローバル人材を育てようと奮闘している。

日経ビジネス2012年5月7日号 34~36ページより

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