(写真:宮嶋 康彦)

農業や漁業など1次産業のデザインにこだわる男が高知にいた。僻地の独自性が未来を拓く。そう信じて、地域のモノサシを描き続ける。観光とは光を観ること。その光源を作り直すことがこの国には不可欠だ。

 高知県の片田舎で始まった小さな試みが世界に羽ばたこうとしている。

 今年9月、ベルギーの全国紙「De Morgen」である企画が始まった。新聞の見開きを用いて手提げバッグを作るという企画だ。見開き2ページの紙面のデザインは、4人の著名デザイナーが週ごとに描く。マニュアル通りに新聞を折れば、お洒落な新聞紙バッグが出来上がる。

 実は、この新聞紙バッグは日本の高知で生まれたものだ。四万十川流域でコミュニティービジネスを手がける四万十ドラマが「エコバッグ」として商品化した。古新聞を使うため、資源の無駄がなく環境にも優しい。しかも、日本が誇る折り紙文化を想起させる。新聞紙バッグが体現している「MOTTAINAI」と「ORIGAMI」。それが、ベルギーでも高く評価されているということだろう。

 この新聞紙バッグは高知県に住む梅原真が仕掛けた。年齢は61歳。本業は商品パッケージや観光ポスターなどを描くグラフィックデザイナーである。身長182cmと大柄で、見上げた先にはル・コルビュジエのような丸眼鏡と分厚い唇が乗っかっている。髪形も丸刈りが少し伸びた感じの短髪と、初対面の印象はなかなか強烈だ。

1次産業の救世主

 見た目と同様に、性格もメリハリが利いている。

 基本形はサービス精神が旺盛な愉快な人。関西訛りの土佐弁は軽やかで、講演や飲み会ではドカンドカンと笑いが起きる。消臭効果が高いとされる柿渋石鹸に「秩父シブガキ 男の石鹸」(2008年、埼玉県皆野町商工会)という商品名をつけたように、ユーモアセンスも格別だ。

 ただ、頭に血が上ると手がつけられない。

 「おまんは何がしたいんじゃ」とクライアントを野太い声で一喝するのは日常茶飯事。会議の最中に資料をまとめて帰ったことも1度や2度ではない。しかも無類の頑固者。相手に情熱がなく、考え方が相容れないと思えば、いくら札束を積まれても受けない。

 仕事に対するスタンスも、ほかのデザイナーとは一味も二味も違う。

 梅原が引き受ける仕事は農業や漁業、林業など1次産業に関するものばかり。それも、半島や離島、辺境の村々の仕事が中心だ。大企業や都会からの依頼も来るが、きっぱりと断ってしまう。その理由を尋ねると、「ぼくは“はじっこ”が好きやき」。「条件の悪いモノ、日の当たらないモノに光を当てたい」という思いは誰よりも強い。

 ニッポンのはじっこに光を当てる――。その姿勢に嘘偽りがないことは、過去の実績が証明している。

 「漁師が釣って 漁師が焼いた」というコピーで知られる明神水産(高知県黒潮町)の「一本釣り藁焼きたたき」(1987~95年)。

 一本釣りのカツオを藁で焼いた藁焼きたたきは南国・土佐の風物詩。だが、時代の流れとともに、効率の悪い一本釣りは大型巻き網になり、手間のかかる藁焼きはガス焼きになった。その現状に疑問を持った梅原は、明神水産の明神宏幸(当時は専務。現在は土佐鰹水産社長)と組み、20億円を超える通販ビジネスに育て上げた。

 同じ黒潮町にある「砂浜美術館」(89年~現在)や、そこを舞台にした「Tシャツアート展」なども代表的な作品として有名だ。

 砂浜美術館とは、広大な砂浜にあるものすべてを美術品に見立てた美術館のこと。沖を泳ぐクジラや海岸沿いの松原、波が残した潮紋、産卵に来たウミガメなど、自然そのものを「展示物」としている。

 この美術館では、季節ごとの特別展示も人気を集めている。その1つがTシャツアート展。写真や絵画などの原画をプリントしたTシャツを浜辺に並べる野外展覧会だ。毎年1000枚前後のTシャツがひらひらと風に舞う。

 この一連の取り組みで、観光地として客を集めながらも、砂浜をそのままの形で残すことが可能になった。

 これ以外にも、馬路(うまじ)村農協(高知県)の「ぽん酢しょうゆ ゆずの村」(86年)、隠岐諸島海士町(あまちょう)(島根県)の「島じゃ常識 さざえカレー!」(98年)、乳湯温泉郷(秋田県)・鶴の湯温泉の「観光ポスター」(2000年)など、全国的に有名な特産物や観光ポスターは枚挙に暇がない。

 そして、その多くは経済的な成功を収めている。

 例えば、梅原が総合的なプロデュースを手がけた高知アイス。それまでは売上高3000万~4000万円の零細企業だったが、梅原がデザインに関わるようになって以降、売上高は4億円近くまで拡大した。

 高齢化や人口減少、公共事業の縮小などで地域経済は衰退の一途をたどっている。1次産業を生業にしている僻地ほど現状は厳しい。打つ手なし。その状況下、デザインによって地域の素材に価値を与える梅原は、「救世主」とも言える存在となった。だからだろう。1次産業に関わる人々が、次々と梅原デザイン事務所の門を叩く。

 1次産業の救世主、梅原真。なぜ彼は農林漁業に固執するのか。その理由を端的に語れば、梅原が好きな原風景を残すため。1次産業がデザインによって経済力をつければ、そのままの風景が維持されると考えるためだ。それでは、なぜ風景なのか。その深層には、梅原の原体験が大きく影響している。

「東京のモノサシ」を捨てろ

 1950年に高知市内で生まれた梅原は、周囲の山海を「我が庭」として育った。カツオの藁焼きたたきや一本釣り漁も、原風景として脳裏に刻み込まれている。

 だが、11歳で転校した和歌山は違っていた。時代は高度経済成長期のとば口である。和歌山の空は灰色で、流れる川はよどんでいた。梅原は休みになると、祖母が住む高知に戻り、休みが終わると、後ろ髪を引かれる思いで和歌山に帰った。和歌山の空が灰色に染まるほど、心の中の高知は光彩を放った。

 ところが、大学卒業後に戻ってみると、高知の景色も経済成長の中で変わろうとしていた。

 子供の頃に泳いだ鏡川はコンクリートに覆われ、遊び回った田んぼや畑は消えていた。押しつけられた価値観に大切なものが破壊されていく。理不尽な現実を、呆然と眺めるほかになかった。

 その後、梅原はテレビ番組やCM製作を手がけるRKCプロダクションに入社した。担当は大道具。公開録画のために舞台やアーチなどのセットをベニヤ板で組み立てた。台風シーズンには台風進路のフリップを作り、ロッキード事件の公判では田中角栄の似顔絵を描いた。

 「やることがもう、むっちゃ広いんですよ」。そう梅原が振り返るように、大道具、レタリング、イラスト、アニメーションなど、デザイナーとしての基礎はここですべて身につけたと言っても過言ではない。

 ただ、テレビの大道具は守備範囲が広い半面、何か1つに秀でているわけではない。便利屋で終わることを危惧した梅原は30歳で独立した。80年1月のことだ。

 大丸や大手菓子店の仕事を受けていたように、独立当初の梅原は、1次産業に限定したデザイナーではなかった。それが、今のような「はじっこ」に傾倒したのは、80年代半ばに手がけた2つの仕事が大きい。

 1つは、先に述べた「一本釣り藁焼きたたき」だ。梅原は祖母がカツオを藁で焼く姿を幾度となく見てきた。魚屋がたたきを焼く光景も日常の一部だった。だが、明神宏幸が相談に来た87年頃になると、一本釣り漁や藁焼きは日常の風景から消えつつあった。

 それが、藁焼きたたきの商品開発に関わり、コピーやパッケージデザインを手がけると、20億円を超える事業に成長した。一本釣り漁や藁焼きの風景が存続しているのは藁焼きたたきが経済力を身につけたため。この経験を通して、土地の風土の基礎になっている農林漁業に経済力を与えることが、自分の好きな景色を残す近道と気づいた。

 もう1つが「十和ものさし」である。これは、四万十川中流域の旧十和村(現四万十町)が89年に作成した総合振興計画のことだ。10年に1度作成する振興計画、その作成をデザイナーの梅原が手がけたのだ。

「一本釣り藁焼きたたき」(左上)、「新聞紙バッグ」(右上)、「鶴の湯温泉観光ポスター」(右下)、「Tシャツアート展」(左下)など全国的に有名な作品は数多い(写真提供:梅原デザイン事務所)

 10カ年計画は、自分の村の将来を考えることにほかならない。そのためには土地に合ったモノサシを作る必要がある。そこで、梅原は庭先に転がっていた棒きれに適当な目盛りを描き、打ち合わせのたびに持ち歩いた。次の時代に向けて、東京ではない独自のモノサシを持つべき――。そう訴えるためだった。

 だが、時あたかもバブル経済の最盛期。梅原の思いとは裏腹に、村の人々は東京のモノサシを求めていた。

 四万十川に架かる沈下橋(ちんかばし)はその典型だろう。

 増水時に橋が水没するため、住民は大雨でも通行ができる大きな橋に造り替えることを望んだ。それに対して、梅原は沈下橋こそ四万十川流域にある地域性の象徴と見ていた。この橋をそのまま維持することこそ、十和村の将来につながる、と。

 なぜ沈下橋のある風景を観光資源として生かさないのか。なぜ特産の栗を使った産業を興そうとしないのか。梅原は「十和ものさし」を通して住民に訴えた。それは、「十和村の価値観を作れ」という叫びだったに違いない。

 だが、橋は村の悲願である。「よそ者がつべこべ言うな」。梅原の「十和ものさし」は反対の声にかき消された。

 意地になった梅原は“沈下橋の向こう側”への移住を決める。その生活は過酷だった。借りた自宅は作業小屋に毛が生えた程度の陋屋(ろうおく)。床はボロボロで、戸もきっちりとは閉まらなかった。風呂は薪、水も山の上から引いた。

 何より、沈下橋に悩まされた。

 「いつも冷蔵庫の中のことで頭がいっぱいでした」。夫人の和香がそう振り返るように、大雨で沈下橋が水没すると買い物に行くことができない。「『食べる』ということにあれほど怯えたことはありません」。それでも、梅原はこの生活を4年余り続けた。

僻地の多様性が日本を救う

 衰退していく1次産業に力を与えようと孤軍奮闘する梅原。だが、梅原が手を差し伸べようとしている人々ほど、自分たちの足元にある価値に気づかない現実――。

 「目の前にいっぱいいいものがあるじゃないか」

 「栗や茶を自分たちで売り出せばいいじゃないか」

 そう繰り返し説く梅原を、地元の人々は風車に突っ込むドン・キホーテとしか見ていなかった。

 最終的に、沈下橋の向こう側を走る国道は2車線の立派な舗装道路になり、四万十川には大きな橋が架けられた。それを目にした梅原は十和村を去り、高知市内に戻っている。言葉にできない無力感とともに。

 もっとも、90年代半ばを過ぎると、時代が梅原に追いつき始める。

 バブル崩壊後の低成長で、梅原が注目していたはじっこが真っ先に苦境に立たされた。必然的に、農林漁業に経済力を与える梅原の存在が注目を集める。その過程で生まれたのが「島じゃ常識 さざえカレー!」であり、「鶴の湯温泉観光ポスター」であり、「男の石鹸」である。

 今では、梅原は単なるローカルの救世主ではなくなりつつある。

 今年1月、秋田県が進めるイメージアップ戦略のアドバイザーに就任した。「秋田県はPR下手」。秋田県イメージアップ戦略推進室長の成田光明が語るように、秋田県は豊富な観光資源を持つものの、その魅力をうまく伝えることができていない。何を発信すべきか。その知恵と戦略を梅原に委ねた。

 「押しつけられた価値観ではなく、自分のモノサシを持つこと。豊かに生きるとは、そういうことと違うンか」

 「観光」とは光を観に行くこと。その光の源は、土地の風景であり、文化であり、アイデンティティーである。誰もが都会に視線を向ける中、一貫して足元の価値を見つめてきたのは、独自性が生み出す多様性以外に地域の資源になるものはないと考えているためだ。

 経済成長に伴う均質化によって、駅前の風景はどこも同じになり、土地の光は輝きを失った。はじっこが生き残ろうと思えば、光源である地域の独自性を取り戻さねばならない。それは、地方だけでなく、グローバル化の海をさまよう日本も同様だ。

 梅原は今、荒唐無稽な取り組みに人生をかけている。それは、高知県の県土の84%を占める森林をブランド化しようという試みだ。今の時代、山がカネになると思っている人間はほとんどいない。だが、梅原は本気で森林のブランド化を目論む。森林が地域の独自性に大きな役割を果たすと見ているためだ。1次産業という困難な素材のブランド化に挑み続けた梅原だからこその勝算だろう。

 再び風車に立ち向かう辺境のドン・キホーテ。彼の歩みの先には、この国が進むべき道がある。

=敬称略(篠原 匡)
梅原 真(うめばら・まこと)
1950年   高知市生まれ
72年   大阪経済大学経済学部卒業、RKCプロダクション美術部に入社
79年   退職後、米国大陸を横断
80年   30歳の時に独立し、デザイナーとして地元中心で活動
89年   四万十川中流域の旧十和村(現四万十町)に移住
93年   高知市に戻る
日経ビジネス2011年10月10日号 78~81ページより目次