若林 克彦(わかばやし・かつひこ)氏
1933年、大阪市生まれ。大阪工業大学を卒業後、バルブメーカー勤務などを経て、74年にハードロック工業を設立。37年間社長を務める。(写真:水野 浩志)

 1両も脱線することなく安全神話を守った東北・上越新幹線。激しい揺れに負けず高さ世界一を達成した東京スカイツリー――。東日本大震災で日本の安全技術の高さを実証したこの2つの建造物には、ある共通の部品が使われている。大阪府東大阪市に本社を置くハードロック工業の「ハードロックナット」だ。

 通常のナットと異なり、どんなに強烈な振動でも緩まないのが特徴。同社の若林克彦社長が「くさび」の原理を応用し38年前に開発した。今では世界中でその安全性が評価され、英国やドイツ、台湾の高速鉄道をはじめ、橋梁や大型ビルなど様々な建築物に採用されている。

 3月11日、新幹線やスカイツリーに限らず、ハードロックナットの緩みが原因で施設が損壊した事例は皆無。津波で地肌がむき出しになった地域でも、同社製ナットが使われていた区間の線路は破損することなく残されたという。

 若林社長は、自ら開発した独自部品によって「メード・イン・ジャパン」の実力を改めて世界に知らしめたとして、2011年日本イノベーター大賞に選ばれた。

10歳から発明に目覚める

 ニックネームは「東大阪のエジソン」。幼少の頃から発明に目覚め、それまで世の中にない様々な新商品を開発してきた。

 太平洋戦争末期、長野県に疎開していた10歳の時に初めて考案したのが「種まき機」だ。「大人たちの農作業を楽にしてあげたい」という思いから考えたという。空洞の車輪に穴を開けただけの簡易なものだったが、これが喜ばれた。

 「克彦、これで種まきが楽になったよ。ありがとう」――。周囲の大人たちから感謝の言葉をもらい、「アイデアは人を幸せにする」と心に刻んだ若林社長は、発明で生きていくことを決意。会社を立ち上げ、「たまご焼き器」や「ペーパーホルダー」などの新商品を世に送り出した。

 見本市で緩みにくい「戻り止めナット」を見かけたことをきっかけに、「絶対に緩まないナット」の開発を志したのは27歳の時だ。

 試行錯誤の末、たどり着いたのが日本の木造建築に古くから使われるくさびだった。アイデアが沸かず神頼みのために訪れた神社で、鳥居にくさびが使われているのに着目。「この原理を応用すれば、何百年も立ち続けるこの鳥居のように、ナットも緩まなくなるのでは」とひらめいたという。

 こうして若林社長は、ナットの形状や仕組みを徹底的に工夫。ついに、ナットとボルトの間にくさびを打ち込んだのと同じ緩み止め効果の実現に成功する。40歳の時だった。

 その威力は、1995年の阪神・淡路大震災でも証明された。地震後、ハードロックナットが使われていた鉄塔が無傷で屹立していた一方で、通常のナットが使われていた鉄塔は無残に崩れ、その下には外れ落ちた大量のナットが散らばっていたのだ。

 「鉄道、高速道路、橋梁、鉄塔…。ナットが絶対に緩んではいけない建造物がある限り、我が社の商品は今後もお役に立てると思っている」と若林社長は話す。

 ハードロック工業が身を置く“町工場のメッカ”東大阪は、国内製造業の空洞化が進む中で元気を失いつつある。10年前に市内に約1万社あった企業数は現在、5800社とほぼ半減した。

“町工場のメッカ”を支える

 しかし、ハードロックナットは発明当時と変わらず今でも東大阪で生産されており、若林社長に海外へ生産設備を移す考えはない。

 「ハードロックナットは、1個の不良品が重大事故につながりかねない場所に使われる。何よりも大切なのは品質なんです。それを安定させるには日本で作るしかない」(若林社長)

 東大阪と日本のモノ作りの灯を守るため、若林社長は今、次の夢を抱いている。ナットに続き「絶対に緩まないボルト」を作ることだ。ナットが使えずにボルトだけで固定しなければならない構造物は少なくない。ハードロックナットの原理を応用して開発可能かどうか検討を重ねる毎日だ。

 今年78歳。今でも日々アイデアを磨き続ける原動力はどこからくるのか。「やっぱり長野で種まき機を使った時の大人たちの喜んだ顔。小学校4年生の時でしたが、今でも鮮烈に覚えているんです」。

 少年時代から何一つ変わらない飽くなき探究心。これこそが「絶対に緩まないナット」の礎となり、未曾有の危機から日本の重要建造物を守ったのだ。

(佐藤 央明)
日経ビジネス2011年11月7日号 92~93ページより目次