新興国の開拓を急ぐ日本企業の間で、若手社員を現地に派遣する動きが広がっている。日本と異なる生活環境に送り込むことで、ビジネスに必要な足腰を鍛える狙いだ。内定者向けの留学制度を用意する企業も現れるなど、対象者の若年化も進んでいる。

 「入社4年目まで東京都内の実家を出たこともなかったのに、いきなり地球の真反対のブラジルで暮らすわけで、これはもう大変な状況でした」

河西さん(左から3人目)にとって、ブラジル留学は初の海外長期滞在となった

 伊藤忠商事の鉄鉱石・製鉄資源部鉄鉱石第二課に勤務する河西智史さん(29歳)は、今年2月から8月上旬まで滞在したブラジル・サンパウロ市での語学研修をこう振り返る。

 河西さんが所属する鉄鉱石部門はブラジルとの関係が深く、今後のキャリアにとってポルトガル語の習得は不可欠。それだけに2010年末に上司から新たな海外派遣制度の第1陣としてブラジル留学を言い渡された時には「とてもうれしかった」。事前に日本でポルトガル語の個別レッスンを受け、張り切って出国した。

 ところが、ブラジルに到着直後は「現地の人たちが何を言っているのかさっぱり理解できず落ち込んだ」。例えばホームステイ先の家族にポルトガル語で「シャワーから水しか出ない」と伝えても、返ってくる言葉が早口すぎてまるで聞き取れなかった。仕方なくゼスチャーを交えてもらったり、インターネットの翻訳サイトや辞書を使いながら意思疎通したという。

 河西さんが現地のコミュニティーに溶け込めるようになったのは、2~3カ月経った頃。ホームステイ先のホームパーティーで、ある日系ブラジル人3世と知り合ったのがきっかけだ。

 この日系3世は日本語を全く話せなかったが、週に1~2回飲み歩くうちに仲良くなり、地元の友達らと催すパーティーにも招かれるようになった。この友人を半ば強引に連れ回すことで、現地事情を詳しく知り得るようになったという。

 例えばサンパウロ市内では繁華街といっても飲み屋ばかりで、目立った娯楽施設は少なかった。2014年にはサッカーのワールドカップ、2016年にはオリンピックが控えているにもかかわらず、同市内には英語表記の標識がほとんど見当たらず、観光案内所も少なかった。河西さんは約5カ月間の滞在を通じて、「今後はエンターテインメント産業や観光に新たなビジネスチャンスがあるかもしれない」と感じたという。

入社8年目までに2カ国語習得

 伊藤忠は新興国の言語や事情に通じた人材の育成に向けて、河西さんのような若手社員を新興国に留学させる「特殊語学派遣制度」の取り組みを強化している。岡藤正広社長の出身母体である繊維部門がいち早く導入した制度を、2010年度から全社に拡大した。年間最大約100人を新興国に送り込む計画だ。

伊藤忠では社員向けに中国語の語学講座も用意している(東京都港区の東京本社)(写真:丸毛 透)

 生活資材・化学品カンパニー合成樹脂貿易課の藤田恭平さん(27歳)も特殊語学派遣制度を体験した1人。今年2月末から中国・大連に半年間留学し、現地の大学などで中国語を学んだ。留学後は海外出張などで現地の取引先と商談する際に、相手の話している内容が分かるようになり、「スムーズに交渉を進められるようになった」と早くも手応えをつかんでいる。

 伊藤忠の特殊語学派遣制度では、原則として現地の一般家庭へのホームステイや、大学寮への入寮を義務づけている。伊藤忠人事総務サービス(東京都港区)の片桐二郎・人材開発サポート部長は「日本語の環境を排除し、現地の人たちのものの考え方に触れてもらうことは、言語の習得以上に大きな目的だ」と話す。

 伊藤忠はこれまでも入社4年目までの若手社員全員を、英語力に応じて英語圏の拠点に実務研修で派遣したり、語学学校に通わせたりする「新人海外派遣制度」を設けていた。今後は特殊語学派遣制度を通じて、中国やブラジル、ロシアなどの新興国での語学研修も必須とすることで、「入社8年目までに2カ国語を話せるようになってもらう」(人事・総務部の佐藤泰美・採用・人材開発室長)考えだ。

若手向け研修を拡充している
伊藤忠商事の入社8年目までの海外派遣制度

 日本企業にとって新興国ビジネスを担う人材の育成が急務となる中、社員を若いうちから語学留学や海外拠点での実務研修に派遣する動きが広がっている。日立製作所が2011~12年度の2年間で新興国の拠点を中心に若手社員2000人を派遣するほか、ダイキン工業もリーマンショック後に一時休止していた海外実務研修制度を今年10月から3年ぶりに復活させた。

 海外での人材育成を手がける企業の多くに共通するのは、入社10年以内の若手社員を対象としている点だ。各拠点への派遣人数を絞り込んで、若手社員らをあえて孤立させるケースもあり、「サバイバル研修」とも呼ばれている。

年代別に重層的な研修を用意する
伊藤忠商事のグローバル人材育成の流れ

派遣先は欧米からアジアに

 「家を自分で探すのですか」。今年7月からインド・ニューデリー市の現地法人で実務研修を受けているNTTコミュニケーションズの齋藤大さん(24歳)は、赴任時の上司の言葉に耳を疑った。齋藤さんは入社2年目で、海外に長期滞在するのはインドが初めて。当然、住居は会社側が用意してくれるものと思っていた。

 仕方なく上司の言葉に従い、現地に到着後2週間かけて20軒程度の物件を下見し、気に入った物件のオーナーに会って自分で手付金を支払った。初めてにしてはスムーズに手続きが進められたと思っていたが、ここから実際に入居するまでが「いかにもインドらしかった」。

 齋藤さんは「一刻も早く入居させてほしい」と伝えていたにもかかわらず、オーナーは「任せておけ」と返答するだけで、具体的な入居日を一向に示してもらえなかった。「今週末こそは入居させてほしい」というやり取りを何度も繰り返し、ようやく入居できたのは着任から1カ月半経った8月半ばだった。

 インドらしい体験をしたのは、家探しばかりではない。齋藤さんは現地の通信サービスを試すために個人用の携帯電話を購入してみたが、回線が開通するまでに2~3週間もかかった。携帯電話が使えない状態なのに請求書が送られてきた時は、「さすがにふざけるなと思った」という。

 こうした経験に当初は苛立つこともあったが、「インドで仕事をするには、たくましさや厚かましさが必要なことを肌身で感じた」。研修先の現地法人では、地元の通信機器メーカーの関係者とやり取りすることもある。家探しなどで苦労したおかげで、「取引先に自分たちの仕事の優先度を上げてもらうために、工夫しながら業務を依頼できるようになった」。

 NTTコムはこれまでも入社5年目以降の社員を対象とする「海外トレイニー制度」を設けていたが、2011年度からは入社1~2年目の社員を対象とする「ジュニア海外トレイニー制度」を追加した。両制度を合わせて2011年度は前年度比2.6倍の50人を海外派遣する計画で、齋藤さんはその第1陣の1人だ。

語学力に応じ複数メニューを
NTTコムのグローバル人材育成に向けた研修プログラム

 同社が海外トレイニー制度を始めた当初の派遣先は欧米が中心だった。だが、現在では同社の顧客企業の多くが海外事業を拡大しているのに伴い、派遣先の国・地域も多様化している。2005年度に4カ国・地域だった派遣先は、2010年度には10カ国・地域にまで拡大し、ベトナムやマレーシア、インドネシアなどアジアの国々が目立つようになった。

 海外トレイニー制度では家賃などの生活費について年間支給額をあらかじめ定めてあり、その範囲で自ら生活設計することを義務づけている。ヒューマンリソース部人事・人材開発部門の高岡宏昌・担当部長は「海外での生活を立ち上げるところから研修のつもりで取り組んでもらうためだ」と説明する。

 NTTコムは今年5月に2015年度までの事業計画「ビジョン2015」を策定。この中で国際通信事業については売上高を2010年度比2倍以上にする目標を掲げており、海外拠点の経営を担う人材の育成が急務になっている。

 高岡担当部長は「適切な人材にいち早く海外で実務経験を積ませることが、会社にとっても社員にとっても成長の早道だと考えている」と話し、今後も海外トレイニー制度の対象者を増やしていく方針だ。

派遣先は多様化している
NTTコムの海外トレイニー制度の派遣先

内定者も派遣対象に

 最近の若手人材の海外派遣では、派遣先の多様化とともに、派遣時期の早期化が目立つ。「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、入社前の人材を海外に派遣する企業も現れている。

 就職情報サービスのエン・ジャパンは採用試験に合格した内定者を対象に、入社前の1年間、英語圏のフィジーに語学留学させる新制度を導入した。入社3年後に返済義務を解消する契約を結んだうえで、渡航費用や学費、生活費などを同社が奨学金として貸し付ける。これは帰国後の入社辞退や早期離職を防ぐためだ。

エン・ジャパンはフィジーの語学学校に内定者を1年間、語学留学させる

 エン・ジャパンでは今年1月に中国・上海市に人材紹介の合弁会社を設立するなど海外事業を拡大中だが、現在の社員の中に海外経験を持つ人材は少ない。石井努・人財戦略室長は「語学留学を経て入社する新入社員は海外事業の即戦力として期待している」と話す。

 現地で会社がほとんど生活支援しない若手社員向けの海外研修としては、韓国・サムスン電子の事例がよく知られる。同社は研修を通じて新興国の言葉や事情に通じた人材を育てたことが、その国での高シェア獲得につながったと言われる。新興国市場に活路を求める日本企業にとっても、若手人材をいち早く戦力化することが、今後の国際競争を勝ち抜く必須条件となりそうだ。

(白石 武志)
日経ビジネス2011年11月14日号 118~121ページより目次