4月15日 対横浜1回戦

 開幕2連敗で迎えた横浜戦。7-6と1点リードの8回表、昨年の中継ぎエース、松岡健一の不調で2死1・2塁のピンチを作る。松岡が限界と見た小川は日高亮にスイッチ。だが、代打・金城龍彦に逆転3ランを浴びた。痛恨の逆転負け。初勝利を挙げるまでに、5試合を要した。12球団で最も遅い初勝利だった。

練習時の一風景。今でも打撃投手を買って出る(写真:共同通信)

 「最も印象に残った試合は何か」。小川にそう尋ねると、真っ先に開幕3試合目の対横浜1回戦を挙げた。昨年の勝ちパターンはリリーフの2枚看板、松岡と林昌勇(イムチャンヨン)で逃げ切るというもの。だが、今シーズンに導入された統一球が指に合わず、松岡は変化球の切れを取り戻せず、苦しんでいた。

 結果的に、松岡は走者1・2塁のピンチを作る。ここで小川は3日前にプロ初登板を果たしたばかりの日高亮をマウンドに送った。プロ3年目ながら期待が高い左腕だ。だが昨年、あれだけ中継ぎとして活躍してくれた松岡を信頼し切れなかったことに、小川は今でも悔恨の思いを引きずっている。

 「監督の采配で負ける試合はあっても、勝つ試合はない」と小川はよく語る。確かに、選手の交代を間違えたり、サインを出して見破られたり、監督の采配ミスで流れが変わるのはよくあることだ。自らの采配ミスで先発の勝ちを消した負け試合を印象深い試合に挙げるのは、何とも小川らしい。

 プロ野球の監督は、選手とは一線を画して、コーチや新聞紙面を通して方針を伝えるタイプが少なくない。それも1つのやり方だが、小川は気軽に選手に話しかける。試合前の練習でも打撃投手として積極的に登板、その後は選手と一緒に球拾いに汗を流す。

 「(選手とは)対人間として接している」と本人が語るように、小川の言動には、選手に対する深いリスペクトが垣間見える。終盤の切り札となった福地に対する態度は象徴的だ。

 レフト・畠山で押し出されるようにスタメンを外された福地に対して、畠山起用の事情を説明したうえで、「申し訳ない」と頭を下げた。その後も、事あるごとに福地に声をかけている。

 その謙虚な人柄は、自身のキャリアと無縁ではない。

 習志野高校のエースとして1975年の夏の甲子園で全国制覇を遂げた。その後、中央大学に進むと、日米大学野球で岡田彰布(オリックス監督)、原辰徳(巨人監督)とともにクリーンアップを打った。高校、大学と華々しいキャリアを歩んでいる。

 だが、河合楽器を経て82年にヤクルトに入団した後は、代打や守備固めなど地味な役回りに終始した。そして、92年に日本ハムにトレード。その年のオフに引退した。通算成績は打率「.236」、66本塁打、195打点。名選手が監督を務めることの多いプロ野球界にあって、その実績は極めて地味だ。

 それは引退後も変わらない。

 スカウトを皮切りに階段を1つずつ上った。2軍監督を務めた期間は9年間に及んでいる。畠山をはじめ、今活躍している1軍選手の多くは、彼が2軍監督時代の教え子だ。

 小川は選手としては、華やかな成績を残せなかった。「ああしておけばよかった」という選手時代の後悔も残っているという。今の選手に同じ思いを味わってほしくない。そう思うからこそ、選手をリスペクトし、できる限りの機会を与えようとしている。

 振り返れば、小川の采配や人心掌握は極めて常識的だ。

 チャンスは与えるが、評価は厳格に下す。全力で考え抜き、厳しい決断は選手に丁寧に説明する。その責任は自らが取り、成果は部下に渡す。そして、部下を人として尊敬する――。組織の上に立つと、多くの人が忘れてしまう「人として当然のこと」を愚直に続けるからこそ、小川のマネジメントは光り輝くのではないだろうか。

日経ビジネス2011年11月21日号 58~59ページより目次