写真:湯山 繁

北海道の片田舎で日本を変えてしまおうと本気で考えている男がいる。ロケットや格安住宅を開発し、独自の教育も実践。一体何がしたいのか。大人への「恨み」を原動力に、「理想郷」の建設に邁進する。

 北海道のほぼ中央に位置する赤平市は、かつて炭鉱で栄えた。だがピーク時に6万人だった人口は、相次ぐ閉山によって1万2000人を数えるほどに減ってしまった。

 すっかり静かになったこの地で、時折、「ゴオオオオ」という地鳴りのような音が響き渡る。すると農作業の手を休め、「植松さんのところでまたロケットの実験をやっているな」と心の中でつぶやく。そして、農作業に戻る。

 その「植松さん」こと植松努(45歳)は、隣町の芦別市で生まれ育った。父・清とともに赤平市に移ってきたのは2000年。親子2人で営む町工場「植松電機」を拡大するために、赤平市の工業団地を購入して新工場を建てた。それを機に、家族経営だった町工場を株式会社にした。

 社長は父・清だが、高齢ということもあり、実質的には専務の植松が会社を仕切っている。作っている製品は、パワーショベルに取りつけるマグネット。通常、パワーショベルは木材などをすくい上げるが、そこにマグネットを取りつけておけば、鉄くずを分別して拾い集めることもできる。植松らはこのニッチ商品を発明して市場を独占し、年商を約3億円に拡大、従業員は約20人を数える。その傍ら、植松が7年前から力を入れているのがロケット開発だ。超小型人工衛星を搭載し、地球を周回する軌道に乗せることが目標だ。

 そんな植松の情熱は、宇宙開発にとどまらない。隣接する13万m2の広大な工業団地を2009年に追加購入した。東京ドームがほぼ3つ入る地で、「理想郷」の建設に邁進している。

 「住宅ローンを10分の1に、教育費はゼロにする」。植松はそんな「国家建設」を大真面目に語る。そして、低コストの住宅も開発した。子供を集めた独自の教育イベントも開いている。その親にも自分の考えを知ってもらおうと、企業の講演も積極的に引き受ける。

 一つひとつを取ってみれば、脈略がないようにも見える。だが、植松の頭の中では、「歪んだ日本社会を正す」という1つの壮大な目的でつながっている。植松を突き動かしているものは一体何なのか。その手がかりを探るために、札幌市郊外にあるカトリック系の児童養護施設「天使の園」を訪ねた。

 この日、養護施設では、園児の誕生日パーティーが開かれていた。「こんにちは」と声をかけると、子供たちが恥ずかしそうに「こんにちは」と返す。その小さな笑顔を眺めていると、子供たちが背負ってきた壮絶な過去を一瞬忘れそうになる。暴力と精神的虐待、そして性的暴行――。天使の園は、親から身の危険を守るために保護された1~18歳の62人が共同生活を送っている。

 「ひどい仕打ちを受けても、ここに来た時、誰も親を憎んでいないんです」。施設の主任児童指導員である金森俊樹はそう語る。だが、感情の抑圧は心身の変調となって表れる。「中には、突然、パニックに陥ったり、寝ている時に叫び声を上げる子もいます」(金森)。

「無理」と「虐待」を撲滅したい

 植松が最初に訪れたのは2004年の正月のことだった。ボランティアとして、この施設の餅つき大会に参加。イベントが終わりに近づいた時、ある児童と話を始めた。

 「神が巡り合わせてくれたとしか思えない」。植松に衝撃が走った。自分が住んでいる赤平市の出身だったその児童は、親から激しい虐待を受けていた。その話を聞いて、植松の中に遠い過去が蘇ってきた。

 幼年時代、植松は暴力に怯えていた。

 父・清は子供の反論を許さなかった。そして時に手を上げる。学校でもそうだった。植松は、1つのことに集中しすぎる。「今なら『学習障害』と診断されると思います。でも、当時は違いました。小学校の教師からは『質問しすぎる』『おまえは普通ではない』といって、事あるごとに殴られました」と打ち明ける。そのことで心を痛めていたが、親に話すと、「怒られる方が悪い」といって再び怒鳴られる。

 救いはどこにもなかった。「優しかったじいちゃんが死んでからは、完全に四面楚歌になりました」。

 「どうして大人は子供を虐待するのだろうか」。その眠っていた疑問が、再び植松の頭に鳴り響いた。天使の園から自宅までのクルマの中、約2時間その問いを考え続けていた。

 虐待を加える人は、自分も幼少時に親から虐待を受けていたケースが多い。ほかにも、様々な原因が取り沙汰されているが、植松は自分なりの結論を導き出した。

 「大人は本心ではやりたいことがあっても、『どうせ無理だ』と諦める。その鬱憤がたまり、弱い立場の子供が標的になっている」。植松の考える児童虐待の構図だ。

 「どうせ無理」。その言葉を、植松は少年期から青年期にかけて、何度となく教師から言って聞かされた。

 小学6年生の時、卒業文集に「自分の作った潜水艦で世界の海を旅したい」と夢を綴った。すると教師から言われた言葉に、植松は深く傷ついた。

 「できもしない夢を書くな」

 中学生の時もそうだった。進路指導の担当教師に「航空機やロケットに関わる仕事に就きたい」と言うと、鼻で笑われた。「芦別に生まれた段階で無理だね」。

 「おまえには無理だ」。そう繰り返し刷り込まれた少年は、夢を諦め、不満がたまっていく。そして大人になって、児童虐待に走る…。長年の疑問が1つの解を生み出した。大人から夢を否定された経験と、殴られ続けた体験が、きれいにつながった瞬間だった。

 そして、1つの決意を固める。子供の頃からの夢だった宇宙開発に乗り出すことを。

 天使の園での運命的な出会いから数カ月後、北海道大学大学院教授でロケット研究をしていた永田晴紀を紹介される。そこから、植松は宇宙事業にのめり込んでいった。永田がエンジン技術を提供し、植松がマグネット事業で稼いだカネをつぎ込む。こうして、北海道の片隅で二人三脚のロケット開発が始まった。

 それから7年、いまだ宇宙事業は利益を生んでいない。だが、植松は一向に気にする様子はない。「ロケット開発を通じて、『どうせ無理』という言葉をこの世からなくせばいいんです」。宇宙に向かって一歩ずつ近づいている姿を示せば、人々が「どうせ無理だ」という言葉を口にできなくなり、ひいては児童虐待の撲滅につながると信じている。

植松努が新しい「町」の建設を夢見る植松電機の敷地。遠くに工場や研修施設、無重力状態を作る落下実験棟が見える
写真:湯山 繁

じいちゃんと見た月面着陸

 既に自社製の小型ロケットを50回も打ち上げた。まだ上空100kmを超える宇宙空間には到達していないが、理論的には今のエンジンを3つ束ねれば可能だという。

 永田は、そんな植松をこう評する。「植松さんは恨みを、公憤に昇華させてしまう、珍しい人」。つまり、私怨を社会全体の問題に置き換えるわけだ。そして、解決に向けて邁進していく。

 それにしても、なぜロケットなのか。

 それは彼の原体験に答えがある。3歳の時、アポロ11号の有人月面着陸をテレビで見た。「じいちゃんのあぐらの中に座って、胸を躍らせて見ていたことを鮮明に覚えている」(植松)。唯一の理解者だった祖父との楽しい思い出。植松の心の中では、宇宙開発と「祖父のぬくもり」の記憶が一体になっている。だからこそ、無理だと言われても、航空・宇宙の仕事に就くことを諦めなかった。

 高校の進路指導では「成績が悪すぎる。大学進学は無理」と言わたが、「奇跡的に合格」(植松)して、航空力学や流体力学を学ぶことになった。大学を卒業すると、航空・宇宙関連企業に入社して、念願の航空機開発に携わることになる。

 勤務地は名古屋。植松は期待を膨らませて仕事に取りかかるが、間もなく疑問を抱くようになった。その頃、航空機を設計する職場では、同僚の多くが仕事に魅力を感じておらず、後ろ向きだった。

 植松も不満が募り、愚痴が増えていった。ある日、ゲームセンターでつまらなそうに時間を潰している自分の姿がガラスに映った。都会の真ん中では、常に「目の前の仕事」に追い回される。そして夢はいつしか、手の届かない所に消えていく。

 その頃、愛知県の山奥にドライブに出かける機会があった。ポツポツと民家がたたずんでいた。たったそれだけのことだった。だが、植松はそこに「幸せ」と「理想」を感じ取った。

 直後の1994年、植松は5年半勤めた会社を辞めて、妻子を連れて故郷の芦別に戻る。父の工場を手伝いつつ、超軽量飛行機を1人で製作していくつもりだった。町工場は当初、炭鉱用機材のモーター修理を手がけていた。だが、次々と炭鉱が閉山されていくと、次第に自動車用モーターの修理へと業務を変えていった。その自動車修理も、モーターが故障すると、そのまま交換することが当たり前になり、仕事は減っていった。

 このままでは、商売が行き詰まる。そう考えて、修理で培ってきた技術力を生かしてマグネット製造に転換した。そして、親子2人だった町工場を約20人の規模まで育て上げた。だが、当時の植松は、経営者として周囲に厳しく接することで、会社を仕切っていた。知らず知らずのうちに、父・清に似てきたのかもしれない。

 だが、天使の園での出来事で目が覚めた。「どうせ無理」という言葉をなくし、児童虐待を撲滅する運動に邁進するようになった。

 その姿勢を、社内でも貫くようになる。古参社員の安中俊彦は、「物理法則に反していない限り、専務は『無理だ』と言わない。私が営業を担当していた頃、製品が全く売れない時期があっても待ち続けてくれた」という。

 その植松は、宇宙開発を続ける傍らで、全国の子供たちを集めてロケット教室を開くようになった。参加者は、火薬を使って飛ぶ小さな模型ロケットを作る。だが、詳しい製作法は教えない。最初、子供たちは「無理だろう」と思うが、仲間と相談したり、試行錯誤を繰り返しながら組み立ててしまう。そしてロケットが空に打ち上がると、子供たちの表情が一変する。最初は長女のクラスの生徒を集めて6年前に開いた。以来、口コミで評判が広がり、今では全国から年1万人もの参加者が集まる。

住宅ローンがない世界を

 講演活動にも励む。企業から招かれて、全国を飛び回る。9月、医学部専門の受験予備校、東京医進学院が東京都内で開いた進学相談会では、200人の聴衆を前に、夢を追う大切さを語った。東京医進学院社長の山下一仁は、「受験生にとって、これからが追い込み。夢を諦めない心を持ってほしかった」と言う。

 都内在住の浪人生、村上慎之介(18歳)は熱心に聞き入っていた。「医師になってから何をしたいのか、考えさせられた。故郷の新潟には医師が足りない地域があるので、そこの医療を支えたい」という。

 大企業の共感も呼んでいる。日本IBM幹部の林口智志は、「低成長期に入り、社会の先行き不透明感が増している。だからこそ、これからのリーダーにはビジョンを示し、実現する力が求められる。それは、夢を諦めない植松先生の生き方と一致する」という。林口は毎年、顧客企業の中堅社員40人を集めて、リーダー育成のセミナーを企画している。その講師が植松にほかならない。

 啓蒙活動だけではない。

 「無理という言葉をなくすには、大人を住宅ローンと教育費の負担から解放しなければならない」

 大人が夢を諦めるのは、家計を支える負担が大きいからだという。芸術家やプロスポーツ選手になりたくても、減収リスクを冒して追求するリスクが取れない。ならば、家計の負担を軽くすればいい、という発想だ。

 特に負担が大きいのが住宅ローンと教育費だ。そこで植松は、この「2大コスト」を解消するという。

 格安住宅を提供するため、トラックで輸送できる「コンテナハウス」を開発している。半永久的に住み続けることが可能なうえ、断熱性を高めて光熱費を節約できる設計にした。既に敷地内に一部が完成している。

 教育に対する考え方も破天荒だ。子供には自由な発想が溢れている。そのアイデアを、企業が研究開発に活用するというもの。企業は、子供たちから問題解決のヒントを得る代わりに、研究開発の現場に子供たちを参加させるなど、職場を教育の場として無償で提供する。その時間に、英語や数学も「OJT(職場内訓練)」で学べるようにした。

 「小学校から大学までの16年間、子供は詰め込み型の教育を受けている。これをやめて16年間、子供たちが企業の生産活動に参加すれば、日本のGDP(国内総生産)も向上する」というのが植松の持論だ。

 そして13万m2の敷地に、コンテナハウスの住宅街や研究施設を次々と建設し、独自の教育方法を実践する場を広げていく。ここでは、誰も「どうせ無理」などと言わない。児童虐待もない。幸せな家族が暮らす、植松にとっての理想郷となる。

 全国には企業誘致に失敗した工業団地が、荒れ地となって数多く放置されている。そうした土地に、同じコンセプトの町を建設してく構想も描く。
 点と点がつながり、やがて面となって広がっていく。

 この男は日本を本気で変えようとしている。

=敬称略(吉野 次郎)

植松 努(うえまつ・つとむ)
1966年   北海道芦別市に生まれる
89年   北見工業大学卒、航空・宇宙関連企業に入社
94年   芦別市で父親が個人経営する植松電機で働き始める
99年   植松電機を株式会社化
2000年   北海道赤平市に移転
04年   宇宙事業に乗り出す
06年   カムイスペースワークスを設立し社長に就

日経ビジネス2011年10月24日号 92~95ページより目次